江戸ポルカ V


〜 9〜


 ぷんと、薬草の臭いが鼻を突いた。
「こんにちは」
 薄暗い店の中に呼びかけたが、返事はない。奥にいて、聞こ
えないのだろうか。
 三志郎とロンドンは目を見交わし、中へ入った。
 屋内は、外よりはいくらかましだったが、暖かと言うには程
遠かった。喋ると、零れた息が白くなる。
 背後で、ロンドンが障子を閉めた。僅かでも暖かいのは、
火鉢などを使っているからだ。無駄には出来ない。
 改めて見回した幻風堂は、狭い土間と八畳ほどの座敷だけの、
小さな店だった。
 薄っぺらい座布団と、書き物机。壁に寄せて薬種棚が一つ置
かれている。
 棚と反対の壁の隅には、屏風が一双立ててあった。
 屏風といっても、三志郎の実家や奉公先にあるような、立派
なものではない。元は立派だったのかもしれないが、今はすっ
かり色褪せ、描かれていた絵柄も定かではなくなっている。
装飾ではなく、実用品なのだろう。
 屏風の向こうは主の住まいか、もう一つ部屋が続いていた。
店から寒風が吹き込まないよう、屏風を立てているのだ。
 三志郎はもう一度、呼びかけた。
「ごめんください。どなたもいらっしゃいませんか」
 やはり、返事はない。
「休みかな」
 ロンドンが首を振った。
「戸を開けっ放しでか?それはないだろう。品川宿は、旅人の
町だ。ある意味、江戸より物騒なんだぜ」
「じゃあ、耳が遠くて聞こえないとか……」
「失敬な。ここにおるわ」
 突然声がして、二人は、ひいっと飛び上がった。
 屏風の上縁から月が覗いていた。それが、すすすと左に動き、
やがて、痩せて小柄な老人が姿を現した。月と見えたのは、老
人の禿げ頭だったのだ。
「おや、お前さんは……」
 白い口鬚をたくわえた老人は、長い眉毛に隠れた目で、三志
郎を見とめた。
 はたと気付いて、慌てて三志郎は頭を下げた。
「この前は、ありがとうございました。俺、爺っちゃんから薬
をもらった……」
「知っとるよ。お前さん、不壊が選んだ人間じゃろう」
「え?」
 驚いて、三志郎は顔を上げた。
「不壊を、知ってるのか?」
「おおう、知っておるとも。あれが、ちぃとも片割れを見つけ
ようとせず、大天狗をてこずらせておったこともな」
 大天狗のことも知っているのだ。三志郎は目を丸くした。こ
れは、本物だ。
 ロンドンが、こほんと咳払いをして、会話に割り込んだ。こ
ちらは、まだ少し疑わしそうな顔つきをしている。
「ご老体。三志郎がうちに担ぎ込まれた時、医者を手伝いに来
たのは、偶然か?それとも、こいつが何にやられたのか、承知
で来た?」
「呼ばれたのは、偶然じゃ。だが、お前さんたちが、この町に
来ていることは知っておった」
「どうやって?」
「わしにも、『耳』がおるからの。ギグは相変わらず元気そうじ
ゃな」
「『耳』って、あの黒いカラスみたいな奴か?」
「ギグのことも知ってるのか!」
 勢い込んで二人同時に訊ね、顔を見合わせる。老人が、苦笑
した。
「こらこら、質問は一つずつにせんかい。
『耳』は、情報を運ぶのが仕事じゃ。あの姿でどこにでも潜り
込んで、情報を手に入れる。言わば、間者と飛脚を兼ねたよう
な存在じゃな」
 と、今度はロンドンの方を向き、
「ギグが久しぶりに新しい片割れを見つけたと聞いておったが
……ふむ、お前さんがそうじゃったのか」
 独り言のように老人は呟き、それから、おもむろに言った。
「それで?儂に何の用じゃな。ただ礼を言いに来たというわけ
ではあるまい」
「うん。爺っちゃんに、頼みがあって来たんだ」
 三志郎は、懐から撃符の束を取り出した。寝ている間も片時
も離さなかった、姿を変えた妖たちだ。
「俺は、勝たなきゃいけない。この妖たちと一緒に戦って、勝
って、こいつらと不壊を自由にするんだ。頼むよ、爺っちゃん。
力を貸してくれ。どうすればもっと強くなれるのか、教えて欲
しいんだ」
 長い眉毛に隠れた目が光った──ような気がした。
 老人は、三志郎とその手に握られた撃符を見、更に、ロンド
ンに目を移して訊ねた。
「おぬしはどうなんじゃ。おぬしがここへ来たのも、この坊主
と同じ理由か」
「いや、ロンドンは──」
 付いて来てくれただけだ。言いかけて、三志郎は息を呑んだ。
 ロンドンが、意外なものを手にしていたからだ。
 一歩、ロンドンは進み出て、三志郎と肩を並べて立った。そ
して、言った。
「そう、僕も同じだ。どう戦えばいいのか、教えてもらいに来
た」
「ロンドン、それ!それは……!」
 口をぱくつかせる三志郎に、ロンドンはにやりと笑った。
「撃符使いは、お前だけじゃないんだぜ、三志郎」
 彼が手にしていたのは、紛れもない、撃符だった。


                            (続く)


2010.7.17
幻風堂登場〜。双子話では亀●人もどきでしたが、こちらでは
真面目に仕事していると思います。多分。