江戸ポルカ V


               〜 8〜


 冷え切った長い廊下の先にある客間は、そこだけが別世界の
ように暖かかった。
 午過ぎに訪れるたった一人の客のために、早朝から火鉢を
三つも入れて、暖めてあったのだ。
 そのことからも、客がこの家にとって、尋常ならざる賓客で
あることが窺える。
 その賓客と、清は向き合い座っていた。
 清は普段どおり白い小袖と緋色の袴、客は淡鼠色の狩衣姿
だった。四十がらみで、がっしりとした体躯をし、医者のような
総髪にはだいぶ白いものが混じっている。
 まっすぐに客を見ていた清が、微笑を浮かべた。行儀よく畳
に両手をつき、低頭する。
「お久しぶりです。お父様」
 男の面にも、清に似た穏やかな笑みが浮かんでいた。
「元気そうで何よりだ。清」
 低く、深みのある声だった。祝詞を上げれば、さぞかし粛々
と響き渡るに違いない。
 清は顔を上げ、父と向き直った。
「お陰さまで、こちらの皆様には大変よくして頂いています」
「この家の先々代のご主人は、筑前の出身で、隠岐神社の氏子
でいらした。江戸においでになる際に、私の祖父、お前にとっ
ては曽祖父に当たる方にご祈祷を頼んでくださってね。そのご
縁で、今でもお付き合い頂いているのだよ」
「そうでしたの」
 清は、初めてここを訪れた日に挨拶を交わした、恰幅の良い
男を思い出した。
 ──お嬢さんのご実家に、私どもはいくらお返ししても返せ
ないほどの恩がございましてな。こうして私がお世話申し上げ
る機会を得たのも、少しでもご恩返しせよという、亡き祖父の
計らいなのでしょう。
 大店の主らしい押し出しの良さで、しかし、押しつけがまし
さは微塵も感じさせることなく、彼は自分の名と商売、そして、
この家は先代の隠居所として建てたものであること、今は数名
の使用人を置いているきりで誰も使っていないこと、だから遠
慮せず好きなように使ってもらって構わないこと──を、清に
告げた。
「さて」
 父は、表情を改めた。
「まず、あのナミという妖の女性(にょしょう)について、言って
おきたいことがある」
「お父様。ナミさんは確かに妖ですが、決して悪い方では──」
 判っていると言いたげに、柔らかな仕草で手を挙げ、父は娘
を制した。
「落ち着きなさい、清。私は、別にナミ殿を悪いものとは思っ
ていない。それどころか、お前を守ってくれたことに、感謝し
ているくらいだ」
 気が抜けて、清は浮かしかけていた腰を、すとんと落とした。
 そういえば、神殿が崩壊した後、清の身に起きたことを父に
伝えてくれたのは、ナミだった。それを受けて、父はこの場所
を用意したのだ。
「手桶の水から現れた時は、さすがに驚いたがね。悪いものと
思うなら、お前の預け先を伝えるわけがないだろう。まったく、
泣きべそ癖は治ったようだが、そそっかしいところは相変わら
ずだな」
 清は赤くなった。
「それなら、言っておきたいことというのは一体……?」
「まさにその、お前を守ってくれた、そのことだよ。お前は、
ナミ殿がどのような妖か、知っているのかい」
「『個魔』というのでしょう。私たち人を片割れとして存在する
妖だ、と」
「そのとおり。だが、それでは満点はやれないな」
 何が足りないのだろう。
 考え込んでいると、老練な神官は言った。
「清、お前は小さな頃から妖の姿を見、話すことが出来た。
その中で、個魔のように人を片割れとする者はいたか?」
 少し考え、清は首を振った。
「いいえ。私が知る限り、他にはいません」
「そう。森羅万象の理において、人と妖とは本来、対極に位置
するものだ。人が陽なら妖は陰。決して相容れない存在だ。
言っておくが、それは必ずしも敵対するということではない。
妖への恐れから、闇雲に妖を排そうとする者たちもいるが、妖
だから即、剣呑だと言うのは、いささか短慮に過ぎるな」
「お父様のおっしゃっていること、私にも判ります。妖は、畏
れはしても恐れるものではないということですね」
 父は頷いた。
「そう。だから、我々のように、人と妖の狭間に立ち、双方が
迷わないようお世話をさせて頂く者がいるのだ。話が逸れてし
まったが、ともかく、人と妖には越えてはならない、あるいは
越えることの出来ない、一線がある。その理の、唯一つの例外
が、『個魔』だ」


                            (続く)


2010.6.12
清パパ、アニメでは出て来ませんでしたが、多分子煩悩では
ないかと思います。