江戸ポルカ V


〜 7〜


漸く目を開けた時、真上から襲い掛かる鉤爪が、酷くゆっくり
と見えた。あれに帯を引っ掛けられたのかと、まるで他人事の
ように不壊は考えた。
弱った同属を仕留める、妖の爪。
そこに、鋭い音を立てて、白い札が貼り付いた。蜘蛛の動きが
止まる。
ぶつぶつと、何かを唱える声がした。
「ナモ ブッダーヤ ナモ ダルマーヤ ナマ スヴァルナヴ
ァーサシャ マユーララージュニャ……」
息を殺し、成り行きを見守る不壊の傍らに、声の主が立った。
白い小袖に濃紫の差袴、薄墨色の浄衣。
重馬は、自分の何倍もある巨大な蜘蛛を睨み上げながら、立て
た二本の指を唇に当てた。
「下れ大蜘蛛。我が眷属となれ」
札が白い光を放つ。不壊は眩しさに顔を顰めた。痛みが、眼球
を突き通す。
光はあっという間に全てを飲み込み、世界を白く塗りつぶして
ゆく。薄い影に変わった大蜘蛛は、ひと声もなく消失した。
光が消え、再び闇が戻って来る。
重馬が振り返った。
「これで三匹目。寄せ餌としてはなかなか人気があるじゃない
か」
不壊のおとがいに手をかける。
「だが、少々時間がかかり過ぎるのが難だ。たらし込むなら、
もう少し早くやれ」
ふん、と不壊は鼻で嗤った。
「初会は焦らし。裏を返して、三度目から、ってのが芳町吉原
の決めごとだ。華院の若様ともあろう御方が、粋な遊び方一つ
知らないのかい?」
重馬の白い貌が引きつった。
「このっ……!」
振り上げられた手をぴしゃりと払い、不壊は立ち上がった。
破れた袂を片手で押さえ、歩き出す。
先刻までとは違い、出口はすぐに判った。ウタが立っていた
からだ。
光沢のある黒い小袖に緋色の帯を締めたウタは、深くうなだ
れ、不壊が近付いても顔も上げようとしない。
傍らを通り過ぎようとした時、ぽつりと言った。
「どうして、逃げないの」
不壊は足を止めた。ウタは、俯いたままだった。
「何から逃げるってんだ」
「あの人──重馬から。こんなことに、協力なんかしたくない
くせに。どうして手を貸しているの」
不壊は肩を竦めた。倒れた時に打ったのか、左肩が酷く痛んだ。
「じゃあ、どうしてお前はここにいるんだ。お前が守りたいの
は重馬(あいつ)じゃない、別の人間だろう」
「……!」
押し黙るウタを残し、出口をくぐった。
片割れのためだけにあり、片割れのために全てを捧げる。背負
う宿命は、ウタも同じだ。
ただ一つ違うのは、彼女が、守る相手を二人持ってしまった
ことだ。
重馬と正人。
掟から言えば、ウタの片割れは重馬だ。例え重馬が、どれほど
悪逆外道な人間であろうと、片割れを替えることは許されない。
だから、ウタは重馬に逆らえない。心はとうの昔に重馬を離れ
てしまっていても、それでも尚、正人の元へ走ることは出来な
い──重馬が、生きている限り。
それはまるで、禁を破って歌い続けたウタに対して、神が下し
た罰のようだった。


                            (続く)


2010.5.30
ずいぶん間が空いてしまいましたが、連載再開です。