江戸ポルカ V


                〜 7〜


生臭い空気の塊が近付いて来る。
息を殺し、神経を研ぎ澄ませて、その存在を探す。
初めはじわじわと、時折様子を伺うものか、その場に留まり、
また近付く。蟲、あるいは水生動物を思わせるその動きを、
不壊は必死に追った。
どこだ。どこから来る。
音も姿も、「それ」は持たない。人の世に在らざる妖は、自ら
意図しない限り、存在を人に気取られることはない。
妖を感じることが出来るのは、特殊な──術師のような──
人間たちか、同じ妖だけだ。
だが、今の不壊には相手が見えない。
闇の中に、鬼がいるのではと疑い恐れる人間のように、微かな
物音にまで耳をそばだて、神経を尖らせる。そうやって逃げる
ことで身を守る以外に、今の不壊に生き延びる術はない。
妖の力を極端に制限されているせいだ。
陰陽師の力で力を封じられた不壊は、一人、妖のねぐらに放り
込まれた。
目的は、中にいる妖を誘い出すことだ。
妖の中には、弱った同属を食うものもいる。そういう連中に
とって、力を使えない不壊は、格好の標的となるのだ。
数瞬、留まっていた妖が、突然動き出した。先刻までとは比べ
物にならない凄まじい速さで、不壊に近付いて来る。不壊が、
『餌』になると確信したようだ。
打掛の裾を翻し、不壊は走り出した。
影になれない不壊は、闇に溶けることも出来ない。
出口を探し、ひたすら妖のいない方へ、いない方へと逃げる。
そこに、
──止まれ、個魔よ。
「……!」
解けた髪を、見えない手が鷲掴んだ。耳元で、囁く男の声。
息遣いまでが聞こえそうだ。
──餌が逃げては、役に立たないだろう?せっかくお前の匂
いに惹かれて来てくれたんだ。せいぜい相手してやれ。
不壊は振り返り、目を見開いた。
闇の奥から、巨大なモノが這い出して来る。黒々とした、毛
むくじゃらの足が八本。
大蜘蛛。
人の生き血を吸い、皮を剥いで肉を喰らう、歳経た蜘蛛の妖
だった。
目はあるが、長い年月で衰えたのか、灰色に濁り、その役を
果たしていない。
それでも、不都合はない。彼は、嗅覚と全身にみっしりと生
えた体毛で、獲物を察知する。
風で吹かれたように、蜘蛛の毛が、ざわりと波打った。
前脚が振り下ろされる。咄嗟に頭を逸らした不壊の顔を、鉤
爪が掠めた。
「離せ……っ!」
縛めを振り解こうと、不壊は足掻いた。
そこに、二度目の鉄槌。今度は、肩。
駄目か、と思った時、縛めが消えた。
床に身を投げ出し、逃れる。一瞬遅れた袂が、悲鳴じみた音
を立て、裂けた。
立ち上がり、再び走り出す。
背後で大蜘蛛が雷鳴のような声を上げた。餌を獲り損ね、怒
っているのだ。
突然、体が宙に浮いた。
胸を締め上げられる感覚があり、次いで、地面に叩きつけら
れた。一瞬、息が止まり、何も見えなくなる。


                            (続く)


2010.1.11
2010年最初の駄文更新は、『妖逆門』から!