江戸ポルカ V


                〜 6〜


目覚めて三日もすると、全身に浮いていた痣はことごとく薄
れ、のた打ち回るようだった痛みも、嘘のように引いた。
「順調に回復しているようだ。もう動いても良いだろう」
ひとしきり三志郎の怪我の具合を確かめた後、町医者はそう
言って、安堵の息を吐いた。
四十半ばだろう。白髪混じりの髪を総髪にし、藍色の作務衣
を纏っている。
ロンドンによれば、この辺りでは一番の名医だということだ
った。
「ありがとう。先生」
着物を引き上げながら礼を言うと、「いやいや」と医者は手を
振った。
「礼なら、その膏薬を作ってくれた方に言いなさい。それがな
かったら、こんなに早い回復はなかった。それどころか、命が
あったかどうかも判らない」
「膏薬?」
巻き直されたばかりの腕のさらしに目を落とす。独特の臭い
のする薬を、確かに医者は塗りつけていた。
「既に訊いているだろうが、私が駆けつけた時、君はもう助か
らないのではと思うほど、酷い状態だった。とても一つずつ手
当てしていたのでは間に合わない。それで、もう一人呼んでも
らったのだ。その方は──正確には医者ではなく、からくり人
形師で、薬屋を兼ねておいでのご老人なのだが──君の怪我を
ひと目見るなり、『かがりの薬が効きそうだ』と仰って、あっ
という間に、その膏薬を作られた」
「かがりの薬!」
医者が目を眇めた。
「知っているのか?私には耳なじみのない薬だが」
「いや、何も……」
『かがりの薬』。間違いなく、あの『かがり』のことだろう。
鎌鼬の妹、かがりが調合する、どんな傷でも癒す薬。
からくり人形師で薬屋でもあるという老人は、妖の存在を知
っているのだ。
「これほど短い間に怪我が癒えたのは、ひとえにその薬のお陰
だ。出歩けるようになったら、その方にもご挨拶に行くといい。
『げんぷうどう』と言えば、この辺の者なら誰でも知っている」
「げんぷうどう?」
「幻に風の、幻風堂だ。店の奥が住まいになっていて、この前
のように呼び出されなければ、大抵一日中、中におられる」
ではこれで、と医者は薬箱を片付け、立ち上がった。彼が階下
へ降りるのと入れ替わりに、ロンドンが上がって来る。
「良かったな。大分良くなったそうじゃないか」
そう言って枕元に座った友人は、三志郎の顔を見るなり、声を
落とした。
「どうした、三志郎」
「俺が妖にやられたと、気付いた奴がいる」
「何だって?」
三志郎は立ち上がった。
肩と右脚に僅かに痛みが残っているが、動くに困るほどでは
ない。
「ロンドン。幻風堂の場所を教えてくれ」
「お前の手当てを手伝ってくれたお爺さんか」
「うん。幻風堂の爺っちゃんは、普通の人間じゃない。妖の存
在を知っているんだ。この薬は、ただの人間に作れる薬じゃな
い」
「会ってお礼を言うだけ、じゃあなさそうだな。その様子だと」
頷いた。
「もっと、妖のことを教えてもらう。今のままじゃ、重馬には
勝てない。──正人にだって。俺は、強くならなきゃいけない
んだ。そのためなら、出来ることは何でもする」
地獄から不壊を引き上げるには、もう誰にも負けるわけには
いかない。勝ち続ける他ないのだ。
ロンドンが、小唄を口ずさんだ。
「『あとはもの憂き一人寝するも、ここが苦界の真中かいな』
……花魁姿が仇になったかな」
「連れ戻したら、あの格好も寝井戸屋も、もう仕舞いだ」
苦笑が浮かぶ。
「まったく、いつだって熱い奴だな。三志郎」
「悪かったな。クールじゃなくて」
「いや、お前はそれでいいさ。……クレッセント!」
ロンドンが呼ぶと、細く開けた襖の隙間から、何かが飛び込
んで来た。
金色の鳥だ。
驚き眼を剥く三志郎の鼻先を掠めるようにして、それはロン
ドンの肩にとまった。すんなりと細く、優美な姿をしている。
「ロンドン、その鳥……」
「クレッセントさ。ギグが連れて来た、妖の鳥だ。綺麗だろう?」
恐れることもなく、妖を「綺麗」だと愛でる。ロンドンもまた、
三志郎と同じ側の人間だ。
「頼む、クレッセント。危ない連中がうろついていないか、幻
風堂の周りを見て来てくれないか。これから、あそこの爺さん
に会いに行きたいんだ」
ロンドンが開けた窓から、クレッセントは飛び立った。ゆっ
たりとした羽ばたきは、天女の舞を思わせた。
「確かに、すっげェ綺麗だな」
「だろ?でもクレッセントは、ただ美しいだけの妖じゃないぜ。
戦えば、素晴らしく強い。──そう、お前の焔斬のように」
三志郎は、友人の顔を見直した。悪戯っぽい笑みが浮かんで
いた。
「ロンドン、お前、まさか……」
「まさか、何だい?」
ロンドンが胸元から引き出したもの。
撃符だった。


                            (続く)


2009.11.27
きみどりに続き、幻風堂登場です。