江戸ポルカ V


〜 5〜


骨は折れたが、根気強く取り組んだお陰で、三月もする頃に
は色々なことが判った。
陰の妖と呼ばれる理由──ウタが良くないと言った理由も。
だが、今は『くらぎ』が必要だ。
止めてくれるウタを失った正人には、そのウタを取り戻すため
に、『くらぎ』が必要なのだ。

山で生計を立てる者たちが作ったのだろう細い林道は、更に細
くなり、やがて急な勾配を描く獣道になった。
それでも、正人は先へ進んだ。
寝込んでばかりで人並みに動くこともままならなかった体を引
きずりながら、危険な冬山の奥へ奥へと分け入って行く。
文献によれば、あと少しのはずだ。もう四半刻も歩けば、目的
の地まで辿り着ける。
また傾斜がきつくなった。
殆ど壁のような斜面をよじ登ろうと、枯れた蔦を掴む。それが
ぽきりと折れた。
「あっ!」
手が、宙を掻いた。支えを失ってよろけた足が、雪を踏みしめ
きれずに滑る。
「うわあああああ!」
叫び声を上げ、正人は斜面を転げ落ちた。白い地面と白い空が、
何度もぐるぐると回る。
どちらが上で、どちらが下かも、もう判らない。
白の中を、どんどん、どんどん落ちてゆく。
やがて、見える景色が白から黒に変わり、何も見えなくなった。


目を開けた時、周囲の色は、白ではなかった。
黒ずんだ梁と柱。薄汚れた壁。
そして、覗き込む少女の顔。
すぐ傍で、ぱちぱちと何かが爆ぜる音がしていた。火が燃えて
いるのだ。
少女のかむろのような黒髪と、ふっくらとした頬に、炎が照り
映えている。
あばら家の囲炉裏端に、正人は寝かされていた。
「君は……?」
訊ねると、少女は怯えたように僅かに身を引き、おずおずと応
えた。
「きみどり」
少女は、粗末な萌黄色の着物姿だった。
親はいないのだろうか。先刻から姿が見えない。
「誰もいない。ここには、私ひとり」
正人は目を見開いた。まるで、心を読まれたようだ。
「『サトリ』か?」
思いついた名を、正人は口にした。
山奥に住み、人の心を見透かすという妖の名だ。こんな人気の
ない山の中なら、出会っても不思議はない。
もし、妖とは縁もゆかりもない、ただの人間なら、「サトリ」など
と言われても、意味が判らないだろう。それならそれでいい。
だが、少女は首を振った。
「違う。サトリじゃない」
サトリの存在を知っているのか。正人は再び驚いた。
「こんな山奥でたった一人で暮らして、サトリの名前を知って
いる……君は、誰なんだ」
「私の名前は、きみどり」
「違う!」
叫んで、跳ね起きた。


                            (続く)



2009.9.30
遅ればせながら、きみどり登場です。