江戸ポルカ V


               〜 5〜


江戸を出たことは、幾度かあった。
幼い頃から、冬場には必ずといっていいほど、気候の温暖な、
水や食物の美味しい場所へ移されていたし、ついこの前まで、
夏から冬の始まりまでは、江戸近郊に身を潜めていた。
だが、それらもまた、町だった。江戸ほどではなくとも、人
がいて家があって、商売をする者たちがいて、医者がいた。
こんな人気のない山奥まで、それも自分の足で入り込んだの
は、初めてだ。
正人は、歩みを止め、額の汗を拭った。
葉を落とした木々も、その隙間を縫って走る小道も、すべてが
白く覆われた真冬の雪山だというのに、寒さはまるで感じない。
それどころか、拭っても拭っても、汗が噴き出して来る。
既に、持参した竹筒の水は空だった。
新雪を口に含み、冷たい空気を肺の奥まで吸い込む。火照った
体が癒されると、漸く正人は頭上を振り仰いだ。
まだ正午前のはずだが、まっさらな紙のように白い空は、太陽
の位置も掴めない。
このまま、夜も朝も来ないのではないかという錯覚を起こしそ
うになる。
まさか。
正人は、頭を振った。
今はつまらないことを考えている場合ではない。早く、目的の
妖『くらぎ』を見つけなければ。
雪の中に、また一歩、足を踏み出す。

『くらぎ』という名の妖を知ったのは、まったくの偶然だった。
父が金にあかせてかき集めた本の中に、書かれていたのだ。
病弱で医者にも見離された息子に、せめて好きな読書くらいは
存分にさせてやりたいと思ったのかもしれないが、『くらぎ』
との出会いは、父のその節操のない買い求め方のお陰だったと
も言える。
鳥山石燕を真似たのだろうが、およそ石燕には及びもつかない、
稚拙な筆で描かれた妖怪草子。その中に、『くらぎ』はいた。
説明には雌狐の妖だとあるにも関わらず、そこに描かれてい
る図は、どう見ても獣の狐ではなかった。
体は大蛇。あるいは大百足のよう。その上に、恨めしげな女の
顔が乗っている。
危険だと、直感した。
不気味な姿は妖なら当然なのだが、くらぎは、他の妖とは違っ
ていた。どこが、とは言えない。
正人の人間としての本能が、その妖は特別だ、危険なのだと
告げていた。
その直感が正しかったことを教えてくれたのは、ウタだ。
「『くらぎ』に触れている本もあるのね」
正人が開いた本を覗き込んだ、すみれ色の目元が曇っていた。
「触れたらいけないもの?」
「そうね……良くはないわ。あれは、陰の妖だから」
妖に陰と陽があるのだと知ったのも、その時が初めてだった。
陰の妖、くらぎ。
もっと聞きたかったが、ウタがこの話を避けたがっているよう
に感じられたので、やめた。
代わりに、自分で調べた。
読本から絵草子まで、関わりがありそうなものは片端から買
い集め、それでも足らずに、寺社にも訊き回った。
無論、年じゅう養生所詰めの体で歩き回ることは出来なかっ
たから、手紙を書き、人を遣っての作業だ。


                            (続く)



2009.9.13
くらぎの名前を出したのは、『たまゆら』以来のような…。