江戸ポルカ V


〜 1〜

 
座ったまま、手探りで床面に触れた。感触から、綺麗に目の
整った畳であることが知れる。湿ったり毛羽立ったりしている
様子はない。
何処かの、屋敷の中か。
次いで、自分の体を確かめた。
ここに落ちた時のまま、どこも壊れてはいないようだった。
身に着けているのも、同じ打掛だ。不壊の動きにつれ、衣擦れ
の音がする。
壁を探し、右手を伸ばした。手指に触れるものはなかった。
次いで、左手。同じだ。やはり、何もない。
まるで、墨の中に放り込まれたようだ。心なしか、身じろぐ度
に、闇がねっとりと纏わり付いて来る気がする。
──まさか。
不吉な予感がして、不壊は、畳に掌を当てた。
影に溶け、自在に物をすり抜ける個魔にとって、壁や天井、床
などは何の意味もない。手は、畳に沈むか素通りする筈だった。
が。
何も起こらなかった。
手は、畳の上で止まったままだ。
不壊は、小さく舌打ちした。鋭い音が、闇の中に吸い込まれ消
える。
結界だ。
妖の力を封じる特殊な結界の中に、どうやら閉じ込められた
らしい。
間違いなく、重馬の仕業だろう。こんな真似が出来るのは華院
の術師、それも高い能力を持った者だけだ。
立ち上がった。見上げても、天井の高さも知れない。
元は普通の座敷なのだろうが、今の不壊にとってはどこまでも
広くもなるし、逆に押し潰されるほど狭くもなる。外にいる重馬
次第ということだ。
その重馬の気配は、感じられなかった。封じ込めたことで、もう
逃げられることはないと高を括っているのか。
闇の中で不壊は嗤った。
馬鹿馬鹿しい。
逃げ出すくらいなら、今ここにはいない。不壊は、力ずくで連れ
て来られたのではなく、自ら重馬に従ったのだ。
──こいつ三志郎を生かすも殺すも、お前次第だ。どうする?
目を閉じた。
三志郎。個魔として生まれた不壊の、ただ一人の片割れ。
『行くな』と、叫んでいた。何度も、不壊の名前を呼んでいた。
三志郎を助けるためだったと判っていても、きっと彼は不壊を
許さないだろう。
理屈ではない。そんなもので動かせるほど、三志郎は物分りの
いい相手ではない。そして、だからこそ、三志郎は不壊の片割
れになった。
三志郎という存在が、不壊の全てだ。彼が生きて、笑っていて
くれるためなら、何だってする。

……春になればぞ うぐいす鳥も
   山を見たてて 身をふける……

微かに、覚えのある唄が聴こえた。声は時に震え、時に掠れ、
今にも消えてしまいそうだった。
泣いているのだろう。
彼女は、個魔の掟に背いた。一人目の片割れから逃げて、二人
目の片割れを見つけたのだ。
一人のために身を捨てようとしても、もう一人がそれを許さな
い。一方を愛そうとすれば、一方を傷つけることになる。
掟に背き、片割れたちを傷つけ、愚かな妖──女は、禁じられ
た唄を唄う。
まるで、神の怒りを呼び込むように。
「……!」
太腿の内側に、生温かいものを感じた。三志郎が放った熱が、
流れ落ちてゆく。
不壊を責めるのは、掟でも神でもない。彼だけだ。
「兄ちゃん……」
呟く声に、唄が重なった。

……春の霞は 見るまいものよ
   見れば目の毒 見ぬがよい……
 

                            (続く)



2009.6.6
今更こんなことを言うのもなんですが、人間と個魔との関係は、
親子あるいは男女の関係にとてもよく似ている…と思うのは、
気のせいでしょうか。