江戸ポルカ U


                〜 22〜

  八丁堀から乗って来た駕籠を、修は目的地より大分手前で
止めた。
 父とも馴染みの駕篭かきだ。告げ口をされないための用心だ
った。
 これから行こうとしている先を父が知ったなら、そのような
悪所に一体何の用があったのかと、きつく問いただされ、叱責
されるに違いない。
「いくつか立ち寄る場所がある。帰りは別の駕籠を仕立てるか
ら、お前たちは帰っていい」
 財布から少し多めの駕籠代を渡してやると、二人は嬉しげに
何度も頭を下げ、戻って行った。
 今日は朝から底冷えのする日だったが、午に来て骨の髄まで
凍てつくような寒さになった。おおかた、熱燗でも一杯引っ掛
けてから帰るのだろう。
 そういった町人の楽しみも、父の勧めで市中を回り始めてか
ら知った。
「……くだらん」
 修は吐き捨て、歩き出した。
 昨夜火事に遭った橋町界隈は、ここからもそう遠くないのだ
が、火事に慣れた江戸の人々は皆逞しく、燃え広がらなかった
ならばそれで良しとばかりに、普段どおりの商いに励んでいた。
もしかしたら、火事のお陰で年が越せると、こっそり胸を撫で
下ろしている大工一家もあるかもしれない。
 一町ほども歩くと、江戸三座の一つ、中村座の建物が見えて
来た。ほんのひと月前には、役者の名を染め抜いた幟がいくつ
も風になびいていたものだが、小屋が休みに入った今は全て下
ろされ、入口も閉ざされて、薄暗い冬空の下、いっそう寒々し
く見える。
 この中村座を始め、大小数軒の芝居小屋を抱えているのが、
悪所と名高い、堺町だった。
 ここには、出囃子の三味線方として働く知り合いがいる。
 修と同い年か、せいぜい一つ二つしか違わないくせに、やけ
にこまっしゃくれた口を利く奴で、修は初対面の時からそいつ
が気に入らなかった。
 大体、芝居小屋などといういかがわしい場所で働くこと自体、
修には理解出来ない。
 だが、ここよりもっといかがわしい場所に、もっと気に入ら
ない男がいる。
 気に入らない、というのは少し違うか。
 目上の者に対する口の利き方も知らない、馴れ馴れしい奴で
はあったが、彼が修に対して何かをしたわけではない。
 だが、彼のやることなすこと、何もかもが、修の癇に障るの
だ。
 彼は、いつでも自然体だった。
 背伸びなどせず、虚勢も張らない。そんなことを、考えたこ
とすらないのかもしれない。
 それが、修を苛立たせるのだ。
 常に大人たちの、特に父の顔色を窺い、必死に自分を奮い立
たせて生きて来た。そうして努力し続けても、修が手に入れら
れないものを、彼はいとも簡単に手に入れてしまう。
 腹立たしい。許せない。
 判っている。これは、嫉妬だ。
 嫌々ながらも、そうと認めることが出来たのは、新たな『力』
を手に入れてからだ。
 堺町の裏側、堀江六軒町──芳町の入口で、修は足を止めた。
 人気のない、空っぽの異様な町が続いていた。だが、通り過
ぎる人々は、誰一人、気に留めていない。近付こうともしない。
人払いの結界が張られているのだ。
「修殿」
 低く声がして、無我が背後に立った。暫く姿を消していたの
が、正人が現れるのとほぼ同時に戻って来た。それからは、ま
た以前のように、修の傍にいる。
 修は尋ねた。
「ここまで、三志郎との勝ち負けにこだわる僕を、お前は小さ
い男だと笑うか?」
 もとより表情に乏しい面は、何の感情も窺わせない。静かに、
無我は答えた。
「拙者から申し上げることは、何も。修殿が決められたことで
あれば、それに付いて行くだけです」
 軽く失望した。


                            (続く)



2008.6.4
現代で言うなら、芳町=新宿二丁目あたりか……まあ、
小学生が通うには、ちといかがわしい場所ですな。