江戸ポルカ U


〜 21〜

 かがりは、すぐには返事をしなかった。
 逡巡するように黙り、そして、ふいと目を逸らすと立ち上が
った。
「十郎兄さんを、必ず連れて帰って来るのだな」
「ああ。約束する」
 横顔でかがりが頷く。イズナがほっと息を吐いた。
「行くよ、イズナ。門を閉じる」
「あいよ」
 待ってましたとばかりにイズナが立ち上がる。その足元で、
畳の表面が騒ついたかと思うと、まるで水面のように波紋が
広がった。
 そこに踏み出そうとするかがりを、三志郎は呼び止めた。
どうしても、言っておきたいことがあったのだ。
「かがりさん、飯、ありがとうな。すげェ美味かった」
 不意を突かれたようにかがりは顎を引き、微かに──見間違
いかと思うほど微かに──目元を和らげた。
「約束を違えなかったら、また作ってやる」
 低い声で言い、かがりは姿を消した。
 残されたイズナが、三志郎をまじまじと眺める。
「何だよ?」
「三志郎……お前、まさかと思うけど、計算ずくじゃねェよな」
「計算?」
「いや、いいんだ。こっちの話だから」
 三志郎の傍らに座る不壊に目を移し、ケケッと笑う。
「今のでお前が落ちた理由も判ったぜ。素であれじゃあ、苦労
するなあ、不壊」
 何のことだか、さっぱり判らない。
 不壊が、イズナを睨んだ。
「余計なお世話だ。かがりにどやされないうちに、早く行け」
「おう。それじゃあ後は頼んだぜ。お二人さん」
 手の代わりに尻尾を左右に大きく振り、イズナはひょいと波
紋の中心に飛び込んだ。
 円が見る間に小さくなる。後には、種も仕掛けもない、どこ
にでもある畳が残った。
 しんと、静けさが戻って来る。
 不壊に振り返り、尋ねた。
「俺のせいで、苦労してんのか?そりゃあ、思い当たることが
ないわけじゃない……ていうか、すっげェ沢山あるけど……」
 撃符使いとしては、きっと正人に遠く及ばないこと。
 それが判っていながら、差を埋める努力もせずに、何日も撃
符を抱えて燻っていたこと。
 江戸轟神社が壊されたのも、日野屋が燃えたのも、元を正せ
ば原因は三志郎にありそうだ。
 あれもこれもと数え上げたらきりがない。
 不壊の薄い唇が動きかけ、しかし、何の言葉も発することな
く、溜息だけが漏れた。
「不壊?」
「……気にすんな。兄ちゃんが撃符使いとして駆け出しなのは、
最初から判ってたことだ。それに、俺が兄ちゃんを選んだのは、
撃符が使えるとかそういう理由じゃない」
「じゃあ、何だ」
「あ?」
「不壊はどうして、俺を選んだんだ」
 不壊は、怒っているのか困っているのか、その両方なのか、
あるいはもっと別の感情なのか、何とも形容のしがたい顔をし
た。
「それだよ」
「どれだよ」
 苦笑に変わる。
「そういうことを平気で聞くから、俺が苦労するんだ」
 やっぱり、判らなかった。


                            22に続く



2008.5.27
兄ちゃんは天然のタラシですから。
不壊は惚れた弱みというやつで、苦労も苦労と思ってません。
天然のドMか……。