江戸ポルカ U


〜17〜


 咄嗟に日野屋の方角へ走り出そうとして、「何をしている!」
と、与兵衛に止められた。
「どこに行くつもりだ、三志郎」
「あっちに、俺の友達がいるんだ!」
「友達?」
「亜紀だよ。番頭さんも知ってるだろ?日野屋の……俺、行っ
て来る!」
「馬鹿者!」
 襟首を掴んで、引き戻された。怖い顔だった。
「今行って、お前に何が出来る?火が消せるのか。怪我人を助
けられるのか。何も出来ない者が行ったところで、足手まとい
になるだけだ。お前は、今、お前がやるべきことをしろ」
 そう言って、与兵衛はまた忙しなく店の中に戻って行った。
 ──今、お前がやるべきことをしろ。
 立ち尽くす三志郎の肩に、どんと誰かがぶつかり、「危ねェ
な!」と怒鳴りながら走り去って行った。
 人の流れは止まらない。次々に、橋向こうから人が、荷が、
渡って来る。逃げて行く。
 三志郎は荷車に飛び付いた。
 次々に運び出される荷物を積み上げ、括り付ける。積む物が
なくなると、自分も店に取って返し、大人に混じって、重い荷
物を引きずり出した。
 主一家と共に知己の寺に身を寄せてからも、僧侶らを手伝
って茶を汲んだり、怪我人のために休む場所を作ったりと、眠
るどころか腰を下ろす暇もないほど忙しく、三志郎は立ち働い
た。
「火も消えたようだ。様子を見に行っても良いぞ」
 与兵衛がそう言ってくれたのは、東の空が白々と明け始めた
頃だった。
 火は堀割を越えることなく消え、瓢屋はかろうじて無事だっ
たが、堀の向こうの被害は小さくなかった。寺の境内は、逃げ
て来た人々と荷物で、地面も見えないほど埋まっている。
 竈の前に蹲り、汗みずくで朝餉のための湯を沸かしていた
三志郎は、しゃがみ込んだまま「え?」と、与兵衛を振り返っ
た。
「いいの?」
 老番頭も流石に疲れは隠せない様子だったが、穏やかに三志
郎に頷いてみせ、言った。
「日野屋さんも、大店だ。もし今回の火事で被害を受けられて
いるようなら、片付けも大変だろう。出来ることがあったら、
お手伝いしておいで」
 私たちは先に瓢屋に戻っているからね、という声は背中で聞
いた。
 寺を飛び出して駆け通しに駆け、千鳥橋を渡った頃には、も
う随分と明るくなっていた。
 火消しに壊された一帯を抜けると、今度は真っ黒に焼け焦げ
た町屋の残骸が広がった。どこかで、子供の泣き声がする。
 足元に、割れて半ば灰に埋もれた飯茶碗が転がっていた。
どきりとした。
 日野屋は、どこだろう。何度も来ている場所なのに、まるで
違う町に来てしまったかのようだ。
 焼け跡を進むうちに、一際太い柱が四本立っているのが見え
て来た。その太さゆえに火事でも倒れなかったのか、黒焦げに
なりながらも、まっすぐに突き立っている。日野屋の店先を支
えていた、柱だ。
 三志郎は小走りに近付いて行った。
 奉公人が何人も動き回っている、その向こうに、手桶を持った
小さな背中が見えた。着物も帯も、元の色が判らないほど汚れ
ているが、少女は一心不乱に桶から柄杓で水を掬い、撒き続け
る。未だ残る燃え滓が、周りで白い煙を上げた。
「亜紀」
 三志郎の呼びかけに、少女が振り返った。泥と煤に塗れた顔
の中で、驚いたように目が大きくなった。


                            (続く)



2008.3.30
兄ちゃんが黙々と何かをやる姿が好きです。
男の人が真剣に仕事している横顔って、良くないですか?