江戸ポルカ U


                〜17〜


「……何だ?」
 渡された書き付けの束を手に、三志郎は顔を上げた。
 瓢屋の帳場で、与兵衛の夜なべ仕事を手伝っている最中だ
った。
 一心にそろばんをはじき、筆を動かしていた与兵衛が振り
返る。
「どうした、三志郎?」
「今、人の声がしたような気が……」
「人の声?」 
 与兵衛が筆を置いた。
 四つ半を過ぎ、開いているのは夜鳴き蕎麦の屋台くらいとい
う刻限だ。騒ぐ者があるとしたら、いずれ平穏な状況ではない。
 険しい表情で、与兵衛はからりと小窓の障子を開けた。
 夜の寒風と共に、今度ははっきりと「火事だあ!」という声が
流れ込んで来た。同時に、半鐘が狂ったように打ち鳴らされ
る。火元が近い。
 60という齢を感じさせない動きで、与兵衛が立ち上がった。
「三志郎、皆を叩き起こせ。いつでも出られるよう、手回りの
物をまとめさせておくんだ。私は様子を確かめて来る」
「判った!」
 三志郎は帳場を飛び出した。殆どの者が寝静まっている瓢屋
の中を、「火事だ!起きろ!」と大声を上げ、すっ飛んで回る。
 途中、小僧部屋に寄り、捨吉らを起こすついでに押入れの行
李を開けた。
 手荷物といっても、たいしたものは入っていない。向島の母
に渡された守り袋はいつも身に着けているし、瓢屋では使用人
の着物はお仕着せだから、せいぜい替えの下着と浴衣、たまに
使う足袋が入っているくらいだ。
 それらの下から、三志郎は撃盤と撃符を取り出した。
 まだ、何も決めてはいない。かといって、ここに置いて行く
わけにもいかない。眠い目を擦りながら支度する二人には見つ
からないように、懐に仕舞った。
 誰かがばたばたと廊下を走り抜けて行く。手代の一人だろう
か、「荷車を用意しておけ」と叫ぶのが聞こえた。
 『火事と喧嘩は江戸の華』だが、実際にひと度火事が起これ
ば、被害は甚大だ。
 何しろ八割がたの人間は、猫の額ほどの庭すら与えられず、
長屋にひしめくようにして暮らしているのだから、焼死する者
も一人二人で済むわけがない。
 だが、火事を恐れる分、江戸の人間はこういう時の対処に慣
れている。
 三志郎が店を一回りして帳場に戻って来る頃には、主の家族
以下、十数人いる使用人全員が起き出し、自分の手回り品だけ
でなく店の荷物まで纏め始めていた。
 瓢屋は料理屋だから、焼けて困るような売り物はないが、それ
でも器や座敷用の飾り物、煮炊き用の道具など、持ち出す物は
数多い。
 どれから持ち出すか、いやその前にどこに逃げるのか確かめ
て来い、などと大騒ぎしているところに、与兵衛が帰って来た。
「火が出たのは掘割の向こうだ。風向きはうちとは逆だが、何しろ
近い。堀留町の方角へ逃げて、様子を見ることにしよう」
 それっとばかりに、店中総出で荷物を運び出しにかかった。
 橋を渡って避難する人の波を掻き分けながら、荷車が店先に
着けられる。
 荷積みを手伝おうと表へ駆け出した三志郎は、火の手の方角
を見て、ぎくりとした。
 確かに、掘割の向こうの空が赤かった。燃えているのは、
汐見橋を渡った対岸──橋町だ。
 橋町二丁目には、亜紀の実家『日野屋』がある。
 まさか、亜紀に何かあったのか。



                            (続く)



2008.3.28
さて、そろそろ…そろそろ、出番です。