江戸ポルカ U


〜16〜


 着物の袖で指先を包み、火傷するほど熱くなった引き手を引
っ張ってみた。
「開かない!」
 襖はびくともしなかった。障子の桟も試してみたが、同じだっ
た。
「お父さん!お母さん!誰か、来て!」
 やっと、判った。
 火種は、火鉢の中じゃない。この部屋そのものだ。
 そして、亜紀は火種の中に、閉じ込められたのだ。
 ──焼け死んじゃう!
 襖が黒く焦げ付き始めた。母自慢の枝垂桜の絵柄に、めらり
と橙色の炎が上がる。
 咄嗟に、火鉢に掛かっていた鉄瓶を掴み、滾る湯を浴びせた。
が、文字通り焼け石に水だ。炎はあっという間に建具を伝い、
畳を舐め、反物に燃え移った。
 行灯の覆いを焼いた炎が油に燃え移り、ボッと音を立てて膨
らむ。
「嫌ぁ!誰か、助けて!」
「亜紀ちゃん!」
 恐怖に座り込みかけた亜紀を、抱き寄せる腕があった。
 黒地に桃色の振袖。二つに分けて垂らした金髪。
 女の顔を、亜紀は見上げた。
「ハル!」
「亜紀ちゃん、大丈夫?怪我はしてない?」
「してない。してないけど……ハル……!」
 目を落とし、亜紀は息を詰まらせた。
ハルに抱き上げられた亜紀は無事だった。着物が少し焦げた
だけで、怪我ひとつしていない。
 だが、まるで身代わりのように、ハルが燃えていた。着物の
裾を、炎が飲み込み始めている。
「ハル!早く逃げようよ!」
 亜紀の個魔であるハルは、亜紀のいる所ならどこにでも影を
伝って現れる。その逆に、亜紀を連れて空間をすり抜け、別の
場所へ行くことも出来るのだと以前聞いた。それなら、この火
事から二人で逃げ出せるかもしれない。
 だが、ハルは困ったように微笑んだ。
「ごめんね、亜紀ちゃん。それが、出来ないのよ」
「どうして!」
「どうしても、この部屋から出られないの。結界が張られてる
のかもしれない」
 いつもと変わらないおっとりとした口調で、とんでもないこ
とをハルは言った。
「何のんびりしてんのよ!あんただけでも逃げなさいよ!」
「そんなこと、出来るわけないじゃない」
「出来なくない!下ろして、ハル!ここにいたら、あんたまで
死んじゃうのよ!」
 もがく亜紀を、しっかりとハルは抱え直した。細い腕からは
想像もつかないほど、強い力だった。
「私は、亜紀ちゃんの個魔よ。亜紀ちゃん一人を残して死んだ
りしない。……それに、私以外にも、もう一人……」
「ハル?」
 ハルが、耳を澄ます仕草をした。そうするうちにも火はどん
どん燃え広がり、そこここでパチパチと木の爆ぜる音がし始め
た。火の回りが早い。
 亜紀は焦った。ハルの腕を掴み、揺さぶる。
「ハル!何してるの……!」
「来たわ!」
 ハルが顔を振り上げた。
 障子が外側から突き破られ、一頭の獣が飛び込んで来た。
炎が、獣の周囲から逃げるように後退する。
 亜紀は目を瞠った。
 馬──違う。もっと細い。鬣が、炎の照り返しを受け金色に
輝いている。
 その目が、亜紀を捉えた。瞳も、鬣と同じ金色だった。
「『麒麟』よ」
 ハルが言い、「麒麟」と、亜紀も口の中で繰り返した。聞いた
ことがある。本で読んだのかもしれない。大陸の、たいそう立派
な妖だった気がする。
 獣の目を、じっと見返す。
「……シロ?」
 ふと、その名前が口を突いて出た。似ても似つかない姿だと
いうのに、亜紀の胸には確信があった。
「お前……シロ、なんでしょう?」
 獣は応えない。
 その沈黙を破り、壊れた障子の向こうから、狂ったような半
鐘の音と、「お嬢さぁん!」と亜紀を呼ぶ声が雪崩れ込んだ。
「お嬢さん!亜紀お嬢さん!ご無事ですか!」
 我に返った。
 そうだ。火事はまだ、消えていない。
「ここよ!」
 ハルの腕を抜け出し、廊下に走り出る。
 屋敷は、火の海だった。降り注ぐ火の粉を払いながら、手代
が二人、廊下をこちらへ向かおうとしているのが見える。
 日野屋が、燃えている。
 こみ上げてくるものを堪え、亜紀は叫んだ。
「ハルもシロもいるから、大丈夫!それより、早く荷物を!店
の荷物を運び出して!」
 二人の返事を待たず、庭へ飛び降り、井戸に飛び付いた。
釣瓶はまだ焼けていない。
 消さなければ。
 日野屋を、守らなければ。
 亜紀は、井戸の中へ桶を投げ落とした。


                            17へ続く



2008.3.25
三志郎には焔斬、ロンドンにはクレッセント……亜紀には?と
色々悩みましたが、結局、麒麟にしました。