江戸ポルカ U
〜 11〜
大きい。二丈(約六メートル)近くもありそうだ。撃符を見た
時には鮫のようだと思ったが、艶々と青みがかった背中と銀
色の腹、長い胸ビレは、むしろ巨大な飛魚のように見える。
空中を泳ぐように、一角が太い尾をひと振りした。風が巻き
起こり、周囲に落ちていた瓦礫の欠片が紙切れのように舞う。
その向こうで、笑い声が上がった。正人だった。
勝ち誇ったような口ぶりで、正人は言った。
「ほら。結局君も、妖を呼んだじゃないか」
「うるせェ!俺は……」
「兄ちゃん!」
不壊が割って入った。見上げた横顔が、厳しかった。
「今は話なんかしてる場合じゃねェぞ。見ろ」
白い指が上空を指す。
一角と鴉天狗が、睨み合っていた。
人間同士の諍いのように、声を上げるわけでもない。威嚇も
しない。
互いの間合いを計るように身構え、どれほど睨み合っていた
だろう。一角が、張り詰めた空気を破った。
鋭い牙を剥き、鴉天狗の左肩に食らい付く。
初めて、鴉天狗の声を聞いた。軋むような絶叫と共に、どす
黒い液体が飛び散る。見守る三志郎の頬にも、それは降りかか
った。生温かい。
はっとした。これは、妖の血だ。
咄嗟に叫んでいた。
「引け、一角!」
鴉天狗が杖を振り上げる。肩に食いついて離れない一角に、
ずぶりと突き立てた。
また新たな液体が噴き出し、三志郎の髪と肩を濡らす。
「一角……」
二体の妖の姿が、白い光に包まれ、消滅するさまを、三志郎
はただ呆然と見ていた。
これは、戦だ。殺し合いだ。
そんなことは、とうに判っていた筈だ。──だが。
「妖召喚!龍魚!」
正人が新たな妖を呼んでいる。不壊が叫んだ。
「何してんだ、兄ちゃん!次の妖を召喚しろ!」
そうだ。呼ばなければ。
のろのろと、三志郎は撃符を一枚抜いた。今度は、名前も判
らない、見知らぬ妖だった。
この妖もまた、血を流して消えるのか。そう思うと、撃符を
通す手が震えた。
「妖、召喚……っ」
三志郎の頭上で、再び妖が激突し、夥しい血が流れた。
妖を呼ばなければ。戦わなければ。
「兄ちゃん!どうした、しっかりしろ!」
不壊が叫んでいる。その声が遠い。
肩を揺さぶられる感覚があって、初めて、自分が膝をついて
いたことに気付いた。
顔を上げる。不壊が覗き込んでいた。苛立っている。
だが、それが判っていても、体が動かない。
「……不壊、俺は……」
青と緑の光が炸裂した。
幾筋もの光の矢が、四方八方に向かって飛んで行く。その中
の一本が、不壊の耳元を掠めた。
紅い珊瑚の簪が砕け、長い銀髪が解ける。
「不壊!」
「構うな。体は無事だ」
三志郎を胸に抱き、不壊は屋根から飛び降りた。屋根は、更
にその下にも続いていたのだ。
崩れかけた屋根伝いに、不壊は走った。
「逃げるのか!」
正人の声が追って来たが、三志郎は応えなかった。体も、心
も、酷く重かった。
不壊は何も言わない。その胸に、三志郎は額を押し付けた。
汗に塗れた撃盤が、少し疎ましかった。
12へ続く
2008.2.3
一度も迷わない男なんて、いないと思う。
強い男ほど、何度も迷って、壁にぶつかって、更に強くなるんだ
と思います。兄ちゃん、頑張れ。
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