江戸ポルカ U
〜5〜
男が口を開いた。鋭く尖った犬歯が見えた。
「正人様が、お待ちだ……」
「正人?お前、正人の仲間なのか!」
応えの代わりに、しゅうしゅうと口から嫌な臭いと音を放ちなが
ら、男は身構え──三志郎に飛び掛かった。
「やめろ!」
横っ飛びに飛んで、逃れる。間一髪だった。鉤爪が、戸板に
突き刺さる。
物音を聞きつけて、店の者が飛び出して来るのではと思った
が、何故か誰も出て来ない。声も足音も聞こえない。全員で
風呂に行ったわけでもなかろうに。
はっとした。
「……人払いの結界か?」
そういえば、今夜に限って火の用心の声も、拍子木の音も聞
こえない。
背筋が、寒風のせいばかりでなく冷えた。
手代に呼ばれて、勝手口から出た時からだろうか。既に、結
界の中に取り込まれていたのだ。
もはや人の皮を脱ぎ捨て、妖そのものと化した男が振り返る。
瞳孔のない金色の目は、作り物のようだ。
戸板を裂き、破片を撒き散らしながら、鉤爪が引き抜かれる。
妖の顔が、半分崩れ落ちた。
「連れて行く!正人様のところへ!」
再び伸びて来た右腕をかわし、三志郎は地べたに転がった。
起き上がるより早く、首を鷲掴まれる。背後の板壁に叩き付け
られ、みしりと、壁と背骨の両方が軋んだ。
「ぐっ……!」
息が詰まる。首にきつく食い込んだ指は、どんなに爪を立て
ても、一向に緩むことはなかった。そもそも痛覚というものが無
いのだろうか。
掠れた呟きが聞こえる。
「連れて行く……正人様がお待ちだ……」
「てめェ、それしか……言えねェのかよ……ッ」
駄目だ。空気が足りない。
肺に残る最後の酸素を搾り出し、三志郎は叫んだ。
「……不壊!」
それは、一瞬の出来事だった。
足元から黒い風が吹き上げたかと思うと、三志郎を包み込ん
だ。
首に食い込んでいた妖の手が弾き飛ばされる。
「兄ちゃん、無事か?」
温かな打掛の中に抱き込まれ、三志郎は「ああ」と首を擦り
ながら応えた。
「助かったぜ。ありがとうな、不壊」
一つ頷き、妖へと目を移した不壊は、耳慣れない言葉を口に
した。
「こいつ……面霊気か」
「メンレイキ?」
「付喪神の一種さ。出来のいい面が長い年月を経て魂を宿すと、
そう呼ばれるんだ」
剥がれ落ちる皮膚は、面の塗り。人の姿の時に表情が動かな
かったのも、元が面である故か。
それにしても、出来のよしあしは別として、よくまああんな暗い
顔つきの面を作ったものだ。彫った彫師も彫師だが、飾る方も
飾る方だ。多分、俺は一生あんなものは飾らないだろうと三志郎
は思った。
突然現れた不壊を警戒しているのだろう。面霊気は二間ほど
の距離を取り、こちらを睨みつけている。
「それで?何だって面霊気がこんなところに出て来たんだ?」
「俺だって知らねェよ。いきなり俺を名指しで訪ねて来たんだ。
正人が待ってる、って」
その名に、不壊の目が鋭くなった。
夏以降、消えた正人の動きを気にしていたのは、三志郎だけ
ではない。不壊もまた、寝井戸屋に身を置きながら、密かに正
人と、彼と行動を共にしているかつての仲間、ウタの行方を追
っていたのだ。
「わざわざあちらさんから迎えを寄越してくれたってわけか。
……来るぜ、兄ちゃん!」
鉤爪が夜気を切り裂き迫る。両腕で顔を庇ったが、覚悟した
衝撃はなかった。
「あれ?」
そろそろと目を開ける。
妖は、忽然と姿を消していた。
「おい!どこ行った!」
打掛から飛び出し、庭先を見回したが、応えはおろか、気配
も感じられなかった。冷たい風だけが、吹き抜けて行く。
分が悪いと見て、引き上げたのか。
遠くで、拍子木の音が聞こえた。面霊気と共に結界も消えた
ようだ。
呆然と立ち尽くしていると、背中で「兄ちゃん」と声がした。
「何だ?」
面霊気が壊した戸板の前に、不壊は立っていた。紅い瞳が、
ひたりと三志郎を見詰めている。決然としたものを感じて、
三志郎は顔を引き締めた。
「兄ちゃんに、会わせたい奴がいる。俺と一緒に来てくれ」
「会わせたい奴?」
不壊はそれ以上何も言わない。
そいつは何者なんだ、と口にしかけて、三志郎は飲み込んだ。
いずれ、行ってみれば判ることだ。
「……いいぜ。行こう」
三志郎が頷くと、不壊は打掛を広げた。その中に包み込まれ
る。
世界が──三志郎の知っていた世界が──遠ざかり、次に見
たのは、暗く果てが知れぬほど長い、板張りの廊下だった。
(6へ続く)
2007.11.10
瓢屋ではきっとこの後、後片付けが大変だったことでしょう。
さて、次は妖怪がぞろぞろ……です。
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