『DEEP DEEP』(抜粋)


「三日、猶予を与えます。その間に、残っている仕事を片付
け、身辺を整理しておいてください」
ワインという名の若い管理局事務次官は、淡々と本部からの
命令をココに伝えた。
もう片付けるものなど残っていなかった。今すぐだって構わ
ない。そうココが言うと、冷ややかな面を動かすことなく、
ワインは言った。
「では、自宅で待機してください。こちらにも、受け入れの
準備がありますので」
結局全てを決めるのは組織であって、こちらはそれに従う
以外ないのだ。
トリコが訪ねて来たのは、その夜だった。
「予定が早まったそうだ。明日、昼12時に迎えが来る」
何の前触れもなく現れたトリコは、開口一番、そう言った。
予定が変わったことを、ココは知らされていなかった。
「N――国政府から、お前を引き渡すように横槍が入ったんだ
とよ。お前を取られるわけにはいかないってんで、幹部連中は
必死だ。万一に備えて装甲車まで用意したらしいぜ」
「ずいぶん詳しいな」
「所長から聞いた」
なるほど、IGOも尻に火が点いているらしい。
所長――マンサムは、『庭』に関わる全権限を持つ統括責任者
だ。同時にトリコやココを美食屋として育て上げた、親代わり
の一人でもある。
そのマンサムが、直にトリコを呼び、事情を話した。のんびり
構えていられる状況ではないということだ。
「僕を宥めすかすように言われたのか?抵抗して、無駄な人死
にを出すような真似はするな、と?」
トリコは、憮然とした表情になった。
「所長がお前をそんな風に見るわけねェだろ。管理局はアテに
ならねェから、直接伝えろと言われただけだ。それに、俺は頼
まれたから来たわけじゃない」
「じゃあ、何だ」
「確かめるためさ。これからどうするのか、お前の口から聞き
に来た」
ココは、トリコの顔を見返した。何を今更。
「どうするも何も、決まっているだろう。IGO親の意向には逆らえ
ない。『庭』に戻るだけだ」
「それから?」
「……?」
「その後は、どうするんだ。『庭』に戻って、血清が完成したら、
それから先は?」
その先は。
自然界に存在しない、しかも宿主であるココが生きている限り、
変化し続けるかもしれない毒だ。血清を作るどころか、分析だけ
で何ヶ月、何年かかるかも判らない。その先の未来など、考えて
もみなかった。
トリコは、厚い肩を竦めた。
「そう悲観するなって。くだらねェ実験ばかりやっているが、
あれでIGOの研究レベルは、世界トップクラスだ。血清くらい
お手の物だろうよ。それに、考えようによっちゃ猛獣や害虫に
襲われにくくなったってことだろ。美食屋稼業にはもって来い
じゃねェか。協力するだけしてやって、血清でも解毒剤でも作ら
せたら、さっさと復帰すりゃいい」
それほど簡単な話でないことは、トリコも承知しているはずだ
った。彼なりの慰めだと判ったが、それを笑って受け止める
だけの余裕が、ココにはなかった。
「例え血清が出来たとしても、もう美食屋には戻れないだろうな。
いつまた毒が変化、暴走するかも判らないんだ。そんな危険な
動物に、大事な食材を狩らせるわけにはいかないだろう。汚染で
もされたら、大ごとだ」
「ココ」
「状況が変わったんだよ、トリコ。装甲車が用意されたのは、
外部からの襲撃に備えてだけじゃない。万一の時、僕を仕留め
るためさ。今の僕はもう、IGOお抱えの美食屋ココなんかじゃ
ない。猛毒を持つ、束縛された動物(チェインアニマル)だ」
ひと息にそこまで言って、息を継ぐ。上下する肩を、大きな手が
掴んだ。思わずココが眉を顰めたほど、強い力だった。
「痛ッ……」
思いがけず近くに、トリコの顔があった。覗き込む目が、強く
光る。射竦められたように、動けなくなった。





2009.4.26 UP
『DEEP DEEP』より抜粋。
オフラインではワインさんも出ています。この時代はまだ局長
ではなく、事務次官だった模様(笑)
大幅に加筆しておりますので、オンラインとの違いをお楽しみ
下さいv