偽物の彼、本物の夜

 「シトリン、トパーズ、サファイア、アクアマリン、アレキサンド
ライト……」
 呟きを聞き逃すことなく、隣に転がっていた男がこちらを向いた。
「何だって?」
「誕生石だよ。双子座の。国によって違うから、一つじゃないんだ。
知ってるだろ?」
 新一の言葉に、世界を股にかける大怪盗は、さして面白くもなさ
そうに頷き、半身を起こした。
 先刻まで、新一をその下に組み敷いていた躯は、よく鍛え上げら
れ、同じ年齢の男とはとても思えない。
 しなやかな筋肉を張り付かせた腕を伸ばし、ベッドサイドの本棚
から、快斗は本を一冊、取り出した。
「ジュエリー・バイブル?宝石の専門家にしちゃ随分初心者向けの
本を読んでるじゃないか」
「陳腐なタイトルだけどな。中身はちょっと面白いから、読んでみ
な」
 また枕とシーツの中に沈み込みながら、快斗はニヤニヤと嗤った。
 ページを捲る。
 目次に並んだキャッチには、さほど変わった物は見当たらない。
 ダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、エメラルド――代表的な宝
石にまつわるエピソードと、取り扱いの注意について述べられてい
る程度だ。
 何がどう面白いのだろう、と首を傾げかけた新一だったが、巻末
のコラムのページに書かれた文字に、ふと目を留めた。
「フォルス・ネーム……」
 本物の宝石に似せて付けられた、紛い物の名前。
 ガーネットはケープ・ルビー。
 ペリドットはイヴニング・エメラルド。
 無色トパーズはアフリカン・ダイヤモンド。
 新一は、顔を顰めた。
「何も知らない顧客を騙して、高い金を払わせようっていう、宝石
商の悪知恵だろ。でも、騙される方も悪いよな。高価な宝石が欲し
いなら、本物か偽物かの簡単な見分け方と、店の選び方くらいはき
ちんと……」
「なるほど。流石はホームズ先生。優等生的なお答えだな」
 微かに皮肉が混じった気がして、新一は、さっと快斗の横顔に
目を向けた。
 快斗は、新一を見ることなく、言った。
「フォルス・ネームに踊らされているのは、何も宝石に限ったこと
じゃない。現代のマリリン・モンローだの、日本のブリジット・バ
ルドーだのと呼ばれている女優が、一体何人いる?
平成のホームズってのも、そうだろう?」
 最後は、明らかに新一のことだった。
 一体、何を言いたいのか。
「騙される側は、知らずに騙されているわけじゃない。騙されるこ
とを望んでいるのさ」
「望んで……」
「マジックショーと同じ。あるはずのないものをあるように見せて
もらって、夢の中で踊るんだ。ひとときの幻を見るために」
 漸く、彼の意図するところに気付いて、新一は、微かな胸の痛み
を覚えた。
「平成のルパン。初代怪盗キッドはそう呼ばれた。もし、ルパンを
本物とするならば、キッドは偽物。そして俺は、偽物の偽物だ。そ
れは、一体何なんだろうな。フォルス・ネームすら、ないんじゃな
いのか」
 ごろりと寝返りを打ち、快斗は新一に背中を向けた。
 偽物の偽物。
 父の影を追って走り続ける限り、彼は自分自身を偽物の怪盗キッ
ドとして扱い続けるのだろう。
「快斗」
 呼び掛けたが、返事はなかった。代わりに、静かな寝息が聞こえ
て来る。
 剥き出しの肩に毛布を掛けてやりながら、新一は呟いた。
「……俺にとっては、お前が怪盗キッドなんだぜ?」
 初代の怪盗キッドを、新一は知らない。どれほど華麗で優雅な泥
棒であったとしても、彼は過去の人物であり、警察のデータや古い
新聞記事の中でしか読むことの出来ない存在だ。
 新一にとっての怪盗キッドは、今、目の前で眠り込んでいる、こ
の男しかいない。
「自分で自分の存在を否定すんじゃねェよ。それに……」
 硬い癖毛を指で梳き、身を伸ばしてこめかみに口づけた。快斗は、
目を覚まさない。
 本を閉じ、部屋の照明を落として、新一も毛布に潜り込んだ。う
っすらと汗ばむ裸の背中に額を当てる。
「探偵は、真実(ほんもの)を見抜くのが仕事なんだぜ」
 手錠をかけるように彼の手首を掴むと、無意識だったのだろうか。
逆に、強く手を掴み返された。


                                 了