みかんの白い筋が嫌いだ。
 小さかった頃──コナンだった頃、ではなく本当に子供だっ
た頃──この筋が喉に張り付いて剥がれず、一晩中咳き込んで
酷い目にあった、そのせいだろう。
 取り出した房から執拗に筋を摘み取りながら、新一は顔をし
かめた。
指先がかじかんで、思うように動かない。
 振り返って見ると、とうに消えていたのだろうストーブの給
油ランプが赤々と点っていた。暖を取りたいなら、階下に降り
て、勝手口に置いてある灯油タンクから給油して来なければな
らない。
 考えただけで億劫になって、結局新一は手近にあったフリー
スを羽織ってごまかすことにした。
 後で風呂に入れば温まるだろうし、何ならその時に給油した
っていい。
 ひとまずみかんは脇に置き、今読んでいる章を読み切ってし
まおうと机の本に目を落としたところで、静かな冬の夜は終わ
りを告げた。
 ガラス越しに見えていた欅の枝が揺れたと見るや、窓が開き、
凍てついた空気が一気に流れ込んで来る。
「こんばんは」
 穏やかだが良く通る声がして、新一は真夜中の侵入者を振り
返った。
 白いマントにシルクハット、スーツ、そしてモノクル。
──怪盗キッド。
 ここが二階の窓だという事実も、万全の筈のセキュリティシ
ステムも、彼にとっては何の意味もないのだ。
 後ろ手に窓を閉めたキッドは、恭しく半身を折り、椅子に掛
けたままの新一の不機嫌な顔を覗き込むと、首を傾げた。
「おや、今夜のホームズ先生はご機嫌斜めでいらっしゃるらし
い」
「土足で入るなって何度言えば判るんだ?大体、俺の家を仕事
の帰り道に使うな!」
 仮にもここは探偵の住まいなんだぞ、と怒る新一を不思議そ
うに眺め、それからキッドは「ああ」と微笑んだ。
「『ついで』なのがお気に召さないのですね?それは失礼しまし
た」
「そうじゃねェ!人の話を聞け!」
「私も貴方に会うためだけに出て来れるならいいのです
が・・・・・・仕方がありませんね。仕事がある」
 何気なく口にされた最後の言葉に、新一の目が細められた。
「盗んで来たのか」
 キッドが肩を竦めて見せる。何を今更、といった仕草だった。
「私は失敗はしませんよ。・・・・・・さて」
 不意に、声の調子が変わった。その中に、禍々しいものを感
じて、新一は立ち上がった。
 キッドが一歩、踏み出す。
 反射的に後ろに下がると、背中が壁にぶつかった。
 逃げられない。
 近づくキッドの頬に、意地の悪い笑みが浮かんだ。
「・・・・・・何が可笑しい」
「いや。ただ、ホームズ先生もそんな顔をするんだと思って」
言いながら、彼は手袋を取った。マジシャンらしい、指の長い
大きな手が現れる。
 それが、シルクハットの鍔に触れた──と見るや、帽子は見
つめる新一の目の前で白煙となって消えた。
 モノクルを外す。
マントも、スーツの上着も脱ぎ捨て、ネクタイを緩めてしま
えば、そこに立っているのは最早世間を騒がせている気障で優
雅な悪党ではなく、新一と同じ十八歳の青年、黒羽快斗だった。
 彼は壁を背に立つ新一に向かい、言った。
「キッドの時間は終わりだ。付き合ってもらうぜ、新一」
 最後の言葉を言い終えるや否や、一気に間合いを詰められ、
抱きすくめられた。
 強引に唇を塞がれて、新一は思う。
 決して手荒にねじ伏せるような真似はしないのに、いつも抵
抗できないのは、体ごと、気持ちごとさらってゆくようなキス
のせいだ。こいつが悪い。
 息苦しさに唇の間で喘ぎ、新一はフリースの下に忍び込んで
くる不埒な右手に爪を立てた。


 マジシャンの手指というのは、皆こんなにも器用なのだろう
か。
 何もない空間から様々なものを取り出してみせる手が、冷え
切った躰のあちこちに火を灯す。
 いっそ感嘆してしまうほど見事な手並みで、あっさりと服を
剥ぎ取られた挙句、思うまま翻弄されているのが悔しくて顔を
背けたが、頬に手を掛け、やんわりと引き戻された。
 唇が重なる。幾度も角度を変え、舌が侵入してくる。
 快斗が纏ったままの青いシャツの胸元を掴んだものの、それ
を押し返したいのか、引寄せたいのか、それすらも決めあぐね
て、新一は途方に暮れた。
 その様子に、快斗がくつくつと鳩のように笑う。
「どうした。人生の機微を見てきた名探偵も自分のこととなる
とからっきしか?」
「・・・・・・るせっ・・・・・・!」
 言い返そうとして呼吸が乱れた。
首筋にちくりと痛みが走る。跡が残る口付けを施した男は、
新一を抱き締め、言った。
「いいじゃん。そういう不器用なとこ、結構好きだぜ」
「何言ってんだ」
「完璧なんてつまらないだろ」
 ベッドのスプリングが耳元で軋む。
 胸の上を撫でていた指先が、勃ち上がった乳首に触れ、摘み、
捏ね回す。
「てめェ、やめろって・・・・・・」
「何で?こんな気持ち良さそうなのに」
 片手が滑り、新一の淡い繁みを掻き分け、熱を孕んだものを
掴んだ。
「やっ・・・・・・!」
握る手が上下する。
 隙あらば蹴り上げてやろうと緊張していた脚が、内腿に落ち
て来た口付けに震え、力を失った。
 忌々しい。
 新一は、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
 こうして気紛れに現れては、ひとしきり抱いて、朝には幻の
ように消えてしまう男が。
 抱かれることに馴れ始めた、情けない躰が。
 そして何より、悔しいと思いながらも、どこかで彼を許して
いる、自分自身が。
 生温かい舌先が脚の付け根を撫でて行く。その刺激に、握ら
れたままの新一の熱が、ぐんと力を増した。
「感じてるなら声出せよ」
 反応する躰を見られている。そのことが、新一を更に煽り立
てた。
 上がりそうになる声を、両手で塞ぎ、必死に飲み込む。
 快斗の親指が円を描き、濡れた先端を滑った。痺れるような
刺激が走る。
「──!」
 まずい、と思った時には止めようもなく、新一はぶるりと身
を震わせた。熱い奔流が噴き出して、快斗の掌を濡らした。
掬い切れなかった白い液体が、びくつく茎を伝い落ちる。
 羞恥と疲労と屈辱が入り混じり、新一は手の甲で目を覆った。
躰がどうしようもなく重く、抵抗する気にもならない。
 きっと、すぐに脚を割られ、彼を受け入れることになるのだ
ろう。そう思っていたのだが、今日は様子が違っていた。
「──?」
 新一の呼吸が完全に整っても尚、一向に触れてこない。不思
議に思って目を開けた新一が見たのは、真上から眺め下ろして
いる快斗の姿だった。
 ひたりと目が合った。
 無言のまま、ただじっと新一を見詰める彼の目の中に、何か
ほの暗い翳りが見えた気がして、新一は眉を顰めた。
「お前・・・・・・何かあったのか?」
 一瞬、快斗の顔に動揺が走った。が、次の瞬間、それは忽ち
皮肉な笑みに取って代わられた。
「いや、別に?」
 短く応えて、何事もなかったように新一の首筋に口づける。
「てめ・・・・・・あんまり痕付けんな・・・・・・って、痛っ!」
 彼にしては強引なやり方で貫かれ、新一は悲鳴を上げた。
 唇を塞がれる。前歯が微かにぶつかった。抑え込まれた手首
が痛い。
 何も言わせない。何も聞かせない。
 開けっぴろげな彼に時折感じる、見えない壁がそこにある。 
 シャツを脱いだ快斗の、よく鍛えられた背中に手を回した。
それは、汗ばんでいるというのに、何故か酷く冷たかった。

 
 冷たい風が動き、甘い、柑橘類の匂いが鼻腔をくすぐる。
 重い瞼をこじ開けたはいいが、枕から頭を起こすのも辛い。
新一は、眼球だけを動かし、視線を巡らせた。
 快斗の姿はいつの間にか消え、火の気のない室内は、冷え切
っていた。
 毛布を口元まで引き上げた時、新一は、先刻からの甘い匂い
の正体を知った。
「──みかん?」
 ベッドの枕元、新一の鼻先に置かれていたのは、快斗が置い
て行ったのだろう、みかんだった。
「何でこんなところに──」
 そういえば、昨夜食べかけて放り出したみかんはどうしたろ
うか。
闇に目を凝らして見たが、机の上にあった筈のそれは見当た
らなかった。
 訝しく、枕元のみかんを手に取り、そこで新一は跳ね起きた。
 これは、ただのみかんじゃない。
慌しく手を伸ばし、ベッドサイドの灯りを点けると皮を剥く。
「あ・・・・・・の野郎ッ!」
 新一の手の中に転がり出たのは、蜜柑の実などではなかった。
ごろりと巨大なオレンジ色のトパーズを手に、新一は暫し唖
然とし、それから深く息を吐き出した。
 昨夜快斗が荒れていたのは、おそらくは、これの絡みだろう。
詳しいことは知らないが。
「バーロォ・・・・・・八つ当たりすんなよな」
 呟き、彼がするように、宝石をライトの光にかざして見る。
よく研磨されたそれは、きらきらと強い光を放ったが、特に変
わったところは見当たらなかった。
 一体彼は、宝石の中に何を探し、何を見ようとしているのか。
知りたくないと言えば嘘になるが、敢えて聞き出そうとは思わ
ない。自分が暴いても良いのは、犯罪の事実だけで、その裏側
にあるものではないのだ。
 トパーズを置き、ライトを消すと、新一は再びベッドに潜り
込んだ。
 警察への電話は夜が明けてからだ。
 夜明けまでのほんの数時間、泥棒も探偵も眠らせてもらった
ところで、罰は当たらないだろう。
 とろとろと眠りの淵に落ちながら、新一は枕元のトパーズを
握った。
それはひやりと冷たく、夜明けの遠さを新一に教えた。


                            了