ALMA ETERNA〜序章〜


まっすぐに腕を伸ばす。
 白い鳩が一羽、その手袋の指先にとまった。
「よしよし、いい子だ」
 クルクルと喉を鳴らす鳩の足首から鈍く光るボタン状のもの──小型カメラを外してや
ると、彼はおもむろに背後の風景に振り返った。
 新宿副都心にそびえ立つ高層ビル群の中でも一際高いこのビルの屋上から見れば、眼下
はまるで光の集合体だった。
 喧騒も、排ガスの澱んだ臭いも、ここまでは上がってこない。
 春未だ浅い夜風は冷たく、彼の頬も熱を奪われたが、しかし彼は身を震わせることもな
かった。白のタキシードにシルクハット、それらと同色のマントが強い風を孕み、音立て
てはためく。
 どれほどそうしていたろうか。不意にヘリコプターの爆音を聞いた気がして、彼は頭上
を振り仰いだ。新月で月明かりすらない空はただ墨を流したように黒く、明滅するヘリの
ライトも見えなければ、それらしき音もしない。
 彼はそれでも、暫しじっと上空を見詰めていたが、やがて
「──行くか」
その一言を呟いた途端、彼の周りを取り囲んでいた空気が変わった。
 心地よい緊張と静かな興奮。
 彼の唇に微笑が浮かんだ。
 ショーの幕が、今上がったのだ。


                    ×  ×  ×


 どすん、と鈍い衝撃があって、体中の骨がみしみしと音を立てた。
 薄く開けた目に、灰色の床が広がっているのが見えて、漸く自分がぼろきれのように床
に投げ出されたことを知った。
 背後の男たちが唾を吐き、何やら毒づきながら部屋を出て行く。
 忍び込んだネズミを退治するだけなら、殺すか外につまみ出すかすれば済むだろうに、
こうして残しておくということは、まだ何か用があるということか。
『行かない方がいいわ』
 出掛けに聞いた哀の声が甦る。
彼女は普段は滅多に見せることのない、気遣わしげな表情をしていた。心配してくれて
いたのだろうが。
『この情報がどこまで信用できるのか、私にも判らないのよ』
 だからもっと調べてから動いた方がいい。そう彼女は言った。
 聞き入れなかったのは、自分だ。
『真偽は俺自身が確かめる』
 そうして今、ここに転がされている自分がいる。あれほどの執念でもって追い続けた『黒
の組織』のど真ん中で、手も足も出せず、死にかけているのだ。
 それでも後悔はしていない。強がりでも何でもなく、どうしても自分自身で確かめたか
ったのだから、仕方がない。
 もし今そう口にしたら、哀はまた、呆れ顔で溜息をつくのだろうか。
 床についた肩が痛い。
 寝返りを打とうとしたが、躰は最早ぴくりともせず、代わりに痛みと痺れが全身を襲っ
た。
 ──・・・・・・俺、また子供になっちまうのかな・・・・・・
 ぼんやりとそんなことを考えた時、どこかで銃声が聞こえた気がした。
 
 
                    ×  ×  ×


 女は扉の前で足を止めた。
 階段ホールの方から、微かだが確かに銃声がしたからだった。
「いかがなさいましたか、ボス」
 背後の男が声を掛ける。長い栗色の髪を持つ彼も、そしてその前に立つ女も、黒い服を
纏っていた。
「・・・・・・いいえ、何でも」
 首を横に振り、ドアノブに手をかけたままで、彼女は背後の部下に振り返った。
「ここから先は一人でいいわ」
「しかし、ボス・・・・・・」
「大丈夫、もう何か出来るような状態じゃないわ」
 男はまだ何か言いたげに口を開きかけたが、結局出てきたのは、「どちらでお待ちしまし
ょうか」という言葉だった。それに人差し指を立てて「上で」と示すと、女は扉を開け、
するりと中へ滑り込んだ。
 残された男の鼻先でドアが閉まり、彼は一礼してその場を離れた。
 急がねばならない。
一刻も早く新しい首領を連れて、日本を出なければならないのだ。



人気のなくなった廊下に、ゆらりと長い影法師が伸びた。
階段の上下からは複数の人間たちが騒ぐ声がしたが、この階にはどうやら誰もいないら
しい。
影の主は注意深く廊下を進み、先ほど女が入っていったドアの前で足を止め、ノブを回
した。鍵は掛かっておらず、小さな軋みと共に、ドアは開いた。
中には男が一人、倒れていた。
ゆっくりと近づいてみる。
暴行を受けたのか酷い有様だったが、どこかで見覚えがある気がした。
鼓動が高鳴る。
まさか。
何故。何故こんなところで。
床で彼が目を覚ました気配があった。
間違いない。『奴』だ。
驚愕も昂揚も、全てポーカーフェイスの内側に閉じ込めて、彼──怪盗キッドは言った。


「よう、妙なところで会ったな。名探偵」



                                        了