Chocolat a la mode


 甘い匂いがする。
 鼻をひくつかせ、トレインはベッドから身を起こした。夕食
の後、うたた寝のつもりで転がったのが、そのまま熟睡してし
まったらしい。時計は、既に真夜中近かった。
 それにしても──。
「……美味そう……」
 トレインを揺さぶり起こしたのは、狭い部屋に漂うチョコレ
ートの香りだった。
 イヴが街で買って来たのか、と辺りを見回したが、少女の姿
はおろか、菓子の欠片一つ見当たらない。
「スヴェン……は食うわけないよな」
独り言を聞き付け、窓際のソファから男が振り返った。
ドライバー片手に、アタッシェのメンテナンスをしていたら
しい。隻眼の相棒は、煙草を口端に挟んだまま、言った。
「何だ、起きてたのか」
「今、起きた。甘い匂いがしたから」
「甘い匂い?……ああ、ひょっとして、これか?」
 火の点いた煙草を摘み、挙げてみせる。
「夕方、煙草が切れたんでイヴにお使いを頼んだら、間違って
コイツを買って来ちまったんだ」
 目を眇め、トレインは立ち上がった。
 ソファに近付き、スヴェンの肩越しに覗き込む。作業台代わ
りの丸テーブルには、スコッチのグラスが一つと、細々とした
部品がいくつか、そして煙草が一箱。
 見慣れたラミーの青い箱ではない。ワインレッドのそれは、
最近、テレビのCMで見た記憶があった。チョコレートの香り
がするというのを売りにしていた筈だ。
「間違えた……?」
「おう。大人びたこと言ったって、まだ十やそこらの子供だも
んな。ましてお使いなんてやったこともなかったろうし、仕方
ないさ」
 トレインは、壁にかかったカレンダーを見遣った。
2月14日。
その日付で、合点がいった。
「……姫っちが、アンタの煙草の銘柄を間違えるわけねェだろ」
 甘い物が苦手なスヴェンに、それでもチョコレートを渡した
かったのだ。イヴなりに、懸命に考えたのだろう。
「小さくっても女は女ってこった」
 トレインの言葉に、スヴェンが眉を顰めた。
「どういう意味だ?」
「そういう意味さ」
 察しの悪い男の唇から、短くなった煙草を抜き取る。背凭れ
越しに手を伸ばし、灰皿に押し付けると、甘く重い煙だけが残
った。
「トレイン?」
「アンタを渡さない、って言ったぜ?俺には」
 胸の奥に走る微かな痛みは、嫉妬ではない。
まして、子供には言えないような関係への、罪の意識でもな
い。
「俺よりお前の方が年が近いから、じゃれてるんじゃないの
か?子供らしい対抗心とか、な」
 呑気なスヴェンの言葉に、トレインは首を振った。
 イヴは、一人の男を挟んで、トレインと自分が対角線上にい
ることを、本能で感じ取っている。
 あの言葉を口にした瞬間、イヴが見せた『女』の顔を、スヴ
ェンは知らない。もしかすると、この先も彼女の想いに気付く
ことはないのかも知れない。
 スヴェンの手が伸びて来て、トレインの頭を抱き寄せた。
大きな掌だった。
「考え過ぎだ。トレイン」
 唇が重なる。煙草の苦さと、チョコレートの甘い匂いに、
真剣な声と眼差しを思い出した。

 ──スヴェンは渡さないよ。私、本気なの。

 ひっそりと、胸の内で謝る。
 ごめんな、姫っち。こればっかりは、俺も譲れないんだ。
「何が可笑しいんだ?」
ソファに引きずり込まれ、くすくすと笑うトレインを見下ろし、
訝しげにスヴェンが尋ねた。
「いや……何だって姫っちは、アンタみたいなオッサンを好き
になっちまったのかなと思って」
「オッサ……!てめェ、俺をいくつだと思ってる!」
「えーと、三十?」
 憮然としたスヴェンの鼻先に、軽く音を立てて口付け、トレ
インは「だけど」と呟いた。
「だけど、俺に姫っちは笑えないよな。そのオッサンに惚れて、
ここまで付いて来ちまったんだから」
 また、胸が痛んだ。
 嫉妬でも、罪悪感でもない──これは、誰にも譲れないほど、
『彼』に懐いてしまったせいなのだと、トレインは思った。

 あいにく、チョコレートも煙草も、持ち合わせはないけれど。
「……アンタが好きだぜ、スヴェン」
 囁くと、応えの代わりに、強く抱き締められた。

 
                              了

2006.6.29 季節はずれにアップ。