コンマゼロ一秒刻みのデジタル表示が、青いバックライトに忙し
なく流れて行く。
 午後8時55分。
 オフィスビルの屋上で、じっと腕時計を覗き込んでいた作業服姿
の青年が、顔を上げた。
 国道を挟んだ向かいは、八階建ての煉瓦造りの建物だった。
 レトロに見えるのは外観だけで、内部は最新技術を駆使した厳重
なセキュリティシステムの監視下にある。
 エントランスロビーから奥のエレベーターホールに入るには、
スタッフのみが持つICカードが必要だ。
 エレベーターを降りれば、そこには各階のゲートがあり、通過者
の指の血管形状をチェックする。建物内のスタッフの血管のデータ
は全て登録されていて、それ以外の者が入ろうとしてもゲートは開
かない。
 だが、そこまではごく一般的なセキュリティ・レベルだ。
 最上階に設置された巨大な保管庫は、壁と床全体に特殊な信号を
流し、僅かでもそこに乱れがあれば──侵入者があれば──即座に
リアルタイム監視システムが稼働し、侵入者を特定する仕組みにな
っている。
 そうまでして守らねばならないものが、ここにはあるのだ。
 国立横浜病理学研究所。
 保管庫の中身は、未解明の病原菌と、そしてこれは一切、公には
なっていないが、開発途中の人工ウィルスだった。
 春先の、まだ冷たい夜風が吹き過ぎる。
 青年は、被っていたキャップを目深に被り直した。
 もうすぐ、時間だ。
 作業服の胸ポケットで、携帯電話が振動した。
「……はい」
 電話の相手は、彼の仲間だった。
「ええ、こちらは問題ありません。……ええ。じゃあ、1分後に」
 電話を切り、またポケットに戻す。
 隣のビルとこちらのビルとの間に張られたケーブル。屋上には、
その保安器が設置されている。
 青年は、保安器に近付くとしゃがみ込み、あらかじめ取り付けて
おいたマッチ箱ほどの装置のスイッチを入れた。緑色のランプが
数度点滅し、オレンジに変わった。
 これから10分間、警備会社に送られる防犯カメラの映像は、偽物
と摩り替わる。
「さて、お次は……と」
 立ち上がろうとした時だった。
 後頭部に、ゴツッと硬いものが押し当てられ、青年は動きを止めた。
 銃口だ。
 セーフティを外す音と、次いで男の声がした。
「どこに雇われた」
 ゆっくりと両手を上げ、背後の気配を探る。一人ではない。複数。
六人──七人、いや、八人。
 たった一人を仕留めるために、この大人数とは、ご苦労なことだ。
それとも、よほど暇だったのか。
 コンクリートの床に片膝をついたまま、青年は問い返した。この
状況下だというのに、のんびりとした声だった。
「予想はついてるんじゃないですか?」
「ふざけるな。真面目に応えろ。さもないと……」
 脅す声が、途切れた。
「貴様、誰だ……っ」
 曇った声を立てて、気配の一つが消える。代わりに、低く静かな
声がした。
「さもないと、何だ?」
 青年の口元に、笑みが浮かんだ。
 ジャスト・オン・タイム。 
 銃を持つ男の気が、一瞬逸れる。その瞬間を青年は逃さなかった。
 銃口を撥ね退け、振り向きざま右肘を鳩尾に打ち込む。
 声もなく、男が昏倒した。
 その向うに、残る六人の男と、見慣れた臙脂赤のコート姿があった。
癖のある金髪と、冷ややかな光を放つ紅い瞳。久蔵。
「どうする。残りも片付けるか?」
 久蔵に向かって、青年は歩き出した。
「面倒ですけどねぇ」
 男たちが後退り、身構える。
 足元に転がる二人も他の六人も、皆、紺やグレーのスーツ姿だった。
街角で擦れ違えば、どこにでもいるサラリーマンに見えるだろう。
 だが、彼らは一般人ではない。いわゆるヤクザの類でもない。
 高額の金で雇われた、プロの始末屋だ。
 久蔵と背中合わせに立ち、青年──平八は、被っていたキャップ
を脱いだ。押し込んであった赤毛が現れる。
「このままお引き取り下さいってお願いしても、聞いてくれそうに
ないですし……お相手するしか、なさそうですね」
 相手は、三人ずつ二手に分かれる作戦に出たらしい。
 久蔵側と平八側に分かれ、じわじわと間合いを詰めて来る。
 6対2──3対1。数的には、不利だ。あくまでも数の話だが。
「……参る」
 久蔵の声で、場が弾けた。
 飛び掛って来る男を、ステップアウトして平八は避けた。着いた
左足を軸に、体を反転させる。まともに胸に蹴りを食らって、男が
吹っ飛んだ。
 平八の靴がスニーカーだったのは、彼にとって幸運だった。普段
愛用しているアーミーブーツなら、肋骨が折れていただろう。
 着地した途端、背後から首に太い腕が巻き付いた。
「うっ……!」
 小柄な平八の体がずり上がり、足が浮いた。喉が締まる。息が出
来ない。
「油断したな」
 正面から、もう一人がじりじりと近付いて来るのが見えた。片手
に、アーミーナイフを握っている。
「言え。貴様らを雇ったのは誰だ」
 耳朶にヤニ臭い息がかかる。平八は顔を顰めた。
「腕を緩めて欲しいか?苦しいんだろう?」
「ええ……貴方の息が臭くて」
「何だと?」
 男の股間に平八の踵が入ったのと、正面のナイフ男の首にケーブ
ルが絡み付いたのは、同時だった。
 股間を抑え蹲った横っ面を、バックハンドで張り倒す。男は悶絶
した。
「やれやれ……」
 埃を払い、立ち上がる。
 床に伸びたナイフ男の首から、久蔵がケーブルを抜き取るところ
だった。
「助かりました」
「梃子摺ったようだな」
「少し。身長差がありすぎる相手は嫌いです」
 ぼやく平八に薄い笑みを返し、久蔵は隣のビルを眺めやった。
「そろそろか」
「シチさんなら、軽いでしょう」
 平八が言い終わらないうちに、最上階の明りが消えた。
 合図だ。
「行きましょう」
 建物内には入らず、非常階段で二人は地上へ降りた。
 隣のビルの裏手、国道から一本奥まった路地に、久蔵の車が停め
てあった。黒のマセラティ・スパイダー。
 運転席に久蔵が、リアシートに平八が乗り込み、待つこと12秒。
ビルの裏口が開いて、スーツ姿の男が一人、出て来た。綺麗に撫で
付けた白髪混じりの髪。細い黒縁の眼鏡をかけている。手には、薄
いアタッシェを下げていた。
 中年の男は迷うことなく細い路地を横切り、久蔵の車のナビシー
トに滑り込んだ。
 平八が、身を乗り出し尋ねる。
「どうでした?」
「上々。代わりのメディアを残して来たから、暫くは気付かないかも」
「ちなみに、メディアの中身は?」
「昨夜のドラマ」
 平八にゼロハリバートンを渡し、男は眼鏡を外した。裸眼は、深
い碧だった。
 中年らしくたるんだ顎の皮膚を掴み、グイと引き上げる。変装用
のマスクの下から現れたのは、久蔵や平八と変わらない20代後半の
若い男の顔だった。
 白い肌に、さらさらと長い金髪──七郎次。
 久蔵がイグニッションキーを捻った。夜のオフィス街に、不似合
いな爆音が響き渡る。派手にタイヤを鳴らし、マセラティは路地を
飛び出した。
「いたた……」
 反動でリアシートに叩き付けられた平八が、頭を擦りながら、身
を起こす。
 平日の夜だが、丁度穴場の時間帯なのか、道は流れていた。
 車は本町通から万国橋を大きく回り込み、神奈川1号線、通称・
横羽線のゲートに向かっている。
「そっちは?」
 ネクタイを引き抜きながら、七郎次が尋ねた。平八が親指を立て、
にぃっと笑う。
「全部で8人。大掃除させて頂きました」
「そっちが3人で俺が5人。何を奢ってくれるんだ?」
「セキュリティを攪乱したのは私ですよぅ。ギリギリまで昼寝して
た人に奢る義理はありません」
 すかさず入った久蔵の横槍に平八がむくれた。七郎次が笑い出す。
 その時、車に積んだ無線機が喋り出した。
『エンジェル。無事か?』
 聞き心地の良い、甘いバリトン。
「ゴロさんだ」
 平八はリアから身を伸ばし、フロントパネルの通話スイッチを入れた。
「はーい、こっちは完了です。ターゲットは手に入れました。シチさんが」
『お疲れさん。カンベエ殿にはこちらから連絡しておくから、今夜は
このまま帰って構わんぞ。部屋に祝杯の準備でもしておいてやろうか』
「おおお、太っ腹」
 髪を手早くトリプルテイルに纏めながら、七郎次が言った。
「ドンペリ2本とチーズと生ハム。それと……」
 すかさず平八も付け加える。
「おにぎり」
「おにぎり?シャンパン飲みながら、おにぎり?」
 七郎次が呆れたように鸚鵡返し、久蔵が体を右に傾けた。無線の
向うで五郎兵衛が笑う。
『判った判った。10個でも20個でも届けておこう』
「かたじけなーい!ゴロさん、愛してます!」
『明日、カンベエ殿にもそう言ってやれ。感激してすっ飛んで来る
かもしれないぞ。……じゃあ、おやすみ』
 無線が切れる。
 車は高速へのスロープを駆け上がり、ETCのゲートをくぐった。
 久蔵がアクセルを踏み込む。400馬力のエンジンが吠えた。
 みなとみらいの煌く夜景が左のウィンドウを飾り、忽ち後ろへと
流れ去った。
 七郎次がカーオーディオに手を伸ばす。勝手知ったる仲間の車だ
が、久蔵の音楽の趣味だけは判らない。
 以前、何気なく立ち上げたら、大音量で『佐渡おけさ』が流れて、
死ぬほど驚いたことがある。
 今日は、スティービー・ワンダーだった。
 『Part-Time Lover』。
「踊るなよ」
 久蔵が釘を刺し、七郎次が応えた。
「最高の夜に事故られちゃ堪らないから、踊りません」
「あ、ねえ」
 平八が久蔵の肩をつついた。
「上、開けません?」
 ルーフが開く。冷たい大気の中、平八は目を閉じた。

 Call up, ring once,hang up the phone
 To let me know you made it home
 Don't want nothing to be wrong with part-time lover ……

 七郎次が口ずさむ歌が聴こえる。
 フル・オープンのマセラティは、夜を切り裂き、東京へと疾走した。


                       〜序章・了〜


2007.2.8 up
エンジェル企画の発起人として、ひとまず序章を書いてみました。
ちなみにキュウもシチもハチも輸入車に乗ってますが、皆日本国内
での利便性を考えて、右ハンドル設定です。(マセラティ・スパイダーは
本来は2人乗りですが、エンジェルっぽく改造して4人乗りにしました)


〜序章〜